ショッカーの午後

ショッカーの憂鬱 その20 SRX-4.3

公安庁鑑識課長、風林崋山は始業2時間前だというのに、登庁していました。歳のせいか最近は目覚めるのが早く、時間を持て余し、仕方なく仕事場へ朝早く出かけるのが日課でした。とはいえ、公安の鑑識なぞ、これといった仕事もなく、朝早く仕事場に来たからといって何をするわけでもありませんでしたので、新聞を読み終えれば、当直の若い連中と話したり、以前の事件の整理をしたり、庁内の雰囲気を楽しみながらお茶をすするのが、風林崋山の毎朝の様子ではありました。

今朝の新聞各社の1面は、警察長官襲撃犯逮捕と逃亡のタイトルがでかでかと踊っています。公安の警備体制の不備を指摘しているものもありましたが、多くの記事は情報不足なのか、警察発表をそのまま載せているものがほとんどでした。

風林華山は新聞を丁寧に畳んで片付けると、テーブルに並べた遺留品を前に、にやにやしました。

「おはようございまぁす。」

助手の枷雉武塁が入ってきました。

「あれ、課長、何にやにやしてんですか?」

「あ、枷雉君か。いや、久しぶりに仕事らしい仕事かと思ってな。」

「この遺留品、例の逃亡犯のですか?」

「ああ、今、星野警部補の被害届と照合してたんだ。」

風林崋山は枷雉武塁にリストを手渡しました。

「この制服って、星野警部補を殴って奪ったそうですね。なんか、ずいぶん話題になってましたけど…。」

星野スミレがイオットに殴られて、裸で大の字にのびていたという話は、今や、庁内で知らぬものはないほどでした。

「まあ、あの星野君が一発でのされてしまったそうだから、よっぽど不意をつかれたのか、あの有賀イオットという女、相当の手だれなのか…。」

そう言いながら、風林華山はブラジャーをつまみあげて、タグを覗き込みます。

「おっほほぉ、星野君のほうがサイズが大きかったと見えるな。」

「なんで、そんなことわかるんです?」

「長年の経験じゃよ…というのは嘘だ、これだよ、これ。」

風林華山は枷雉武塁に1枚のレシートを渡しました。

「そのレシートはな、この遺留品が見つかったデパートで、有賀イオットが買ったものだ。ほれ、ブラのサイズが小さかろう。」

今度はブラジャーを枷雉武塁に手渡します。

「あ、ほんとだ。買ったのはCカップ、星野警部補のは、90のDですね…、なるほどな。」

枷雉武塁はへんに感心しています。風林華山はリストをチェックし終えると、お茶を一口すすりました。

「なくなっているのは、現金12万円、公安のIDカード、身分証明書、警察手帳、それに手錠だ。」

「手錠?そういえば、手錠があったのに、なぜ有賀イオットは星野警部補に手錠していかなかったんですかねぇ。」

「うーん。まあなぁ、手錠かけておけば、さらに時間が稼げるはずだったのは確かだがな…。もっともその必要がないと、踏んだのかもしれないな。」

「そういえば、警備班の話じゃ、相当気持ち良く倒れていたらしいっすからね。」

「…無くなったのは、そんなものかな。足がつきやすいから、クレジットカードは置いていったし、制服一式、携帯電話、靴、下着と…後は全部揃ってるな。」

風林華山はリストに印を押すと、遺留品は個別に袋に入れ、証拠品として保管庫へ回すよう、枷雉無類に命じました。

ところで、無くなったものは、それだけだったのでしょうか。賢明な読者はもうお気づきでしょう、そうです、拳銃が一挺無くなっていました。彼女が脱走したイオットを追いかけてるときに、持っていた拳銃です。もっとも、星野スミレが股間に隠していた小型の拳銃は、無許可のものでしたから、被害届には記入しなかった、いや、記入できなかったのです。彼女は、イオットがその拳銃を使って、第2第3の事件をおこしやしないかと、内心穏やかではありませんでしたが、然し、公にするわけにもいかなかったのでした。

+++++

凶嫁舞信玄は悶々として、眠れない夜をすごしたのか、大あくびをしながら、夕べのファイルを広げました。

「それで、どうするよ。何から調べたもんだか。」

左目の下の青痣が、昨日よりくっきりしてしまったような星野スミレに問い掛けました。

「そうね、とりあえず資料室行きましょうか。」

公安庁資料室、地下3階のワンフロアー全部使って、膨大な資料が保管されています。多くの資料はデジタル化されていて、各課の端末でも閲覧できましたが、捜査本部から外されてしまった手前、他の捜査員の近くにはいたくなかったこともあって、資料室へ行くことにしたのです。

資料室は風林華山の鑑識課の管理下でしたが、特に担当者がいるわけでもなく、入口の扉のロックを解除すると、誰でも入ることができました。室内は、涼しいくらいの温度に設定され、照明のスイッチを入れると、不似合いなくらい明るくなり、余計肌寒さを感じます。ずらっと書棚が並んだ光景は壮観ですらありましたが、まさか、端から一冊ずつファイルを調べるわけでもありませんので、凶嫁舞信玄は、入口近くのテーブルに置かれた端末のスイッチを入れました。星野スミレは傍らに置かれた自販機から、コーヒーを取りだすとテーブルに置き、凶嫁舞信玄の側に立って、端末の画面を覗き込んでいます。その横顔を見て、不意に、凶嫁舞信玄はこの部屋に二人ッきりということに気づき、心臓がどきどきしだしました。

「…あ、えーと、その、何から調べる?」

「そうね、とりあえず本名だと信じて、住民基本台帳で有賀イオットを検索してみて。」

凶嫁舞信玄がキーを叩くと、該当データなしと表示されます。

「住民基本台帳には登録なし…だなぁ。」

「あ、待って、死亡、抹消も含めて検索して。」

今度は基本台帳の全項目が表示されました。

「えーと、有賀イオット。浅草襤褸アパート。1972年8月15日生まれ、1990年に、抹消登録、ああ、行方不明による死亡届だ。でも、これ当人なのかな?」

「生年月日は合ってる。まあ、そうそうある名前じゃないとは思うけど…。」

「えーと、父親は…いないな、私生児かぁ…母親は1988年に死亡ってなっている。」

「1988年…彼女が16の時ね。死因は?」

「ううむ、そこまでは書いてないな。」

凶嫁舞信玄はさらにキーを叩き、検索し直しました。

「1988年の事件で有賀って名前が出てくるものはっと…、あ、出た。南都解放戦線籠城事件だってよ。」

「南都解放戦線?」

「え…と、概要は、武装過激派集団による人質籠城事件。親子3人が人質となり、母親と二女が死亡。長女は一命をとりとめたものの、収容された病院から失踪、以後行方不明だってさ。」

星野スミレは、考え込むような表情になりましたが、何か思うところあったらしく、書棚の奥へ行くと、たくさんの本を抱えて帰ってきました。

「何、それ?」

「アサヒグラフ。写真が出てるんじゃないかと思って。事件は何月?」

「あ、8月だ。」

彼女は8月号からページをめくりだし、10月号にその記事は出ていました。『凄惨極める籠城事件〜武装過激派の脅威(撮影坂阿仁氏)』と題された写真は事件直後の現場の様子や、連れ出される母娘の様子が映しだされていました。彼女は食い入るように見つめていましたが、3枚ほどめくったところで、ページを開いたまま凶嫁舞信玄に渡しました。

「あったわ、見て、ちょっと幼い感じだけど、有賀イオットに間違いないわ。」

そこには、現場から担架で運ばれていくイオットの写真と、その顔のアップが掲載されていました。今よりあどけない感じはありましたが、彩度の薄い髪と瞳の色はそのまま、まさしく有賀イオットでした。

「病院から失踪、行方不明ってどういうことだろう?」

「くわしい話は当時の事件簿にも載ってないわ。お宮入りになってるみたいね。」

凶嫁舞に代わり、キーを叩いていた星野スミレが答えました。

「十年間姿をくらましていて、戻ってきたら、いきなり警察長官暗殺かい?なんだかなぁ…。」

「どこに消えてたかは分からないけど、でも、どこから来たのかは分かってるのよ、実は。」

彼女はファイルから数枚のコピーを取りだしました。

「え、なんだい、それは?」

「被害者、絵夢美詠楠の供述調書よ。風林課長からもらったの。これによると、絵夢美詠楠は事件前々日に成田空港に彼女を出迎えに行ってる。エールフランス403便で到着するはずだったが、空港では会えず、そのまま帰社。上司の叱責を受けたとなってるわ。」

「なんだ、じゃ乗客名簿を確認すれば、オーケーじゃないか。」

「でね、403便の日本人乗客は、全員シロ。身元が確認できたわ。他の外国人旅行者で身元が確認できていないのが15人、そのうちイオットっていう名前が3人、うち2人がフランス国籍、1人はドイツ国籍ってなってるわ。」

「有賀イオットって名前ではいないんだ、ま当然だろうけど。」

「で、ここで、また絵夢美君の供述なんだけど、彼女は社内ではカ=メレオン=ナって呼ばれてたらしいの。絵夢美君の解説じゃ、古代サンスクリット語で『消える人』って意味らしいんだけど、真偽の程は定かじゃないわ。」

「カ=メレオン=ナぁ?なんだい、そりゃ。それで、その名前の旅行者は、いたの?」

「もちろん、いないわ。さらに供述調書によれば、彼女は自らをイオット・コラションって呼ばせてたらしいのよ。で、その名前だと、さっきのドイツ国籍の旅行者ってことになるのよねぇ。」

凶嫁舞は、コピーに書かれたドイツ語の綴りを見ていましたが、うーんと唸りました。

「これ、フランス読みなら、コラションだけど、ドイツ語だとコルシホンだね。偽造パスポートだったのかなぁ。」

「その点は、ドイツ大使館に確認ずみだわ。」

「で、やっぱり偽造?」

「いいえ、本物らしいのよ。旧東ドイツの住人で、ベルリン在住。事件の1週間前にパリへ出発している。で、パリから成田っていうことらしいわ。」

「パスポートの写真は…?」

「これがドイツ大使館から電送してきたものよ。」

彼女はそう言って、ファイルから写真を取りだしました。その写真は、逮捕したときに映したものと寸分違わぬものでした。

「おいおい、じゃ、彼女はドイツ人ってこと?有賀イオットとは別人?」

「さあ、どうかしら。とにかく分かっているのは、そこまでってことよ。」

二人は、とりあえず、プリントアウトやアサヒグラフのコピーをファイルに整理しました。

「それで、どうする?」

新しいコーヒーを星野スミレに手渡すと、凶嫁舞信玄が尋ねました。

「…うーん、そうね、捜査本部を外されちゃったってことは、何やってもお構いなしってことだから、現場でも行ってみましょうか。」

「そうだなあ。部屋の中にいても仕方ないし、そうしようぜッ。」

+++++

公安庁ビルの玄関前へ、凶嫁舞信玄はヤマハSRX-4.3をひきずりだすと、おもむろにエンジンをかけました。

通常、警察官、特に警部補クラスの移動には、パトカーが自由に使えることになっています。しかし台数に限りがあることと、申請書の記入、つまり行き先や使用時間を申告する必要があって、手間がかかるので大抵の者はタクシーを利用していました。タクシーの利用料金は、一応申請すれば捜査予算から支払われるのですが、多くの場合持ち出しになってしまい、安月給の凶嫁舞信玄としては、それなら自分のバイクを使ったほうが懐の痛みも少ないと思っていました。

星野スミレは、自分のポルシェを使ってもいいと、凶嫁舞信玄には言っていたのですが、彼は何やかやと理由をつけては断っていました。ひとつには、混雑する都内なら、バイクの方が身軽に動けることもありましたが、本当のところ、女性にクルマを貸してもらうのが格好悪いと思っていたことと、バイクならごく自然に体を密着させて乗ることになりますから、凶嫁舞信玄にしてみれば、数少ない彼女との接触の機会を減らしたくないと思っていたのが、本音のようでした。

庁内では、制服着用していますが、外回りの時は概ね私服に着替えます。バイクに乗ることもあって、凶嫁舞信玄はジーンズにTシャツ、星野スミレも制服の短いスカートからジーンズに着替え、薄手のライディングジャケットをはおり、ヘルメットを抱えて玄関から出てきました。

「じゃ、凶嫁舞、まず浅草の現場、マンションからね。」

「了解。」

二人はバイクに跨がると、爆音を轟かせ新宿を後にしました。

凶嫁舞信玄にとって、こうしてバイクで走ってる間は、至福の時でもありました。わざと乱暴な運転をしますので、後の星野スミレは、彼にしっかりとしがみついています。背中に押し付けられた彼女の胸の膨らみを感じながら、凶嫁舞信玄は時折このままどこまでも走っていきたい衝動にとらわれることがあったほどでした。ことに今日は、いつもなら背中に伝わってくる、彼女のライディングジャケット越しのブラのワイヤーの感触がなく、ひょっとしてノーブラ?などとヘルメットの中で凶嫁舞信玄の口元はゆるみっぱなしでしたから。

+++++

警察長官襲撃事件の現場、マンションでは、ようやく警視庁鑑識の現場調査が終わり、張り込みの刑事を除いては、報道陣が2、3人うろうろしているだけでした。短期間にあまりに多くの事件が起こったとはいえ、実際には長官襲撃事件からまだ3日間しか経ってないのですから、現場にはまだ生々しい雰囲気が残っていました。

「凶嫁舞、見てよ、あれ。」

バイクから降りた星野スミレが指差したのは、公園でゲートボールをしている集団でした。とても老人には見えない体格の連中が、押し黙ったままボールをころがしています。しかも、ご丁寧に全員が濃いサングラスをかけ、しきりにあたりを伺っています。

「うわあ、あれじゃ刑事ってことが、バレバレじゃん。警視庁も何考えてんだか…。」

あたりを見回すと、同じような濃いサングラスをかけた、植木屋やら、電気工事屋がうろうろしています。犯人は現場へ戻る、というのは昔からの鉄則と言われており、その鉄則を踏襲しての張り込みでしょうが、それにしてもうかつな変装という感じでした。

星野スミレは、そんな張り込みの連中は気にも留めず、さっさと玄関前へ行き、煉瓦敷の前庭に描かれた人型のチョークの跡を眺めています。即死の状態で撃たれながらも、なおも長官をかばい倒れたSPたちの最後が、綺麗になぞられていました。彼女はライディングジャケットのジッパーを下げ前を開けると、内ポケットから一枚の紙を取り出しました。

「一応、警視庁からの第一次報告によると、最初に長官に一発、次いでSPに一発ずつ。あっちの植え込みの方から撃たれたらしいわね。」

「マニュアル通りなら、あのへんの植え込みあたりまでは、長官が出てくる前に確認しそうだけどなあ。」

「そうね、SPが死んでしまった今となっては、どうだったのか分からないけれど…。」

前庭から見た植え込みは、ちょうど人の腰くらいの高さで、しゃがんでいれば隠れることもできそうではありましたが、身辺警護をその職分とするSPなら、かえって意識して確認しそうな場所でもありました。

植え込みの下、地面が覗く部分には、鑑識が靴跡を採取したのか、石膏の跡が残っていました。星野スミレは、植え込みの側に立ち、前庭に向かって両手で銃を構える仕草をしました。

「ここから狙って、一発で仕留めるのは至難の技よねぇ。」

「うーん。俺じゃあ、無理だな。」

「そのうえ、有賀イオットは裸だったのよ。なんのために、服を着ていなかったのかしら…。」

「逃走するときに、驚かそうと思ったんじゃないの。ほら、強烈な印象があると、細かいことって覚えてないって言うじゃん。」

「でも、現場には衣服が残ってなかったのよ。最初から裸の必要があるの?」

「…うーん…裸が好きだとか…なんか、そういう性癖があるとか、ほら、君を殴ったときも、裸だったし…。」

星野スミレは、裸のイオットに殴られて、逆に自分が裸で廊下にのびてたことを思い出し、少しむっとして凶嫁舞信玄を睨みました。凶嫁舞信玄は、しまったと思いましたが、言ってしまったことは仕方ありません。

「いや、ははは、ここは暑いなあ、あっちの公園で一休みしよう、なんか冷たいもんでも買ってくるわ、はは・・は。」

とりあえず、笑って誤魔化すことにしました。

+++++

公園の大きな樹は、緑の葉をおおいに繁らせ、真夏の日差しから隔絶された空間を創り出していました。蝉の甲高い鳴き声が、その短い一生を懸命に主張しつづけるかのように、頭上から降り注いでいます。ベンチに腰掛けた凶嫁舞信玄は、自分達の座る場所と、ほんの数メートル先まで迫る焼けた埃っぽい地面との間に結界があるかのようにさえ感じられました。星野スミレはライディングジャケットを脱ぎ、大きく背伸びをしました。汗を吸い込んだTシャツが体に貼りつき、その大きく盛り上がった胸の頂点に可愛らしい突起を見せています。

あ、やっぱり、ノーブラだった。

凶嫁舞信玄は、バイクに乗っている間中、気になっていた事が確認できて、ちょっと満足でした。その胸の先を見つめてにやにやしていると、彼女が急に立ち上がったので、一瞬、自分のいやらしい想像がばれたかと思って、凶嫁舞信玄はどきりとしましたが、そうではないようです。

「凶嫁舞、あの男、なんか怪しくない?」

彼女が見ていたのは、マンションの前をうろうろしている体格のいい男でした。頭髪は天然パーマなのかもじゃもじゃで、太い眉が意志の強さを感じさせます。皮のジャンパーを着込み、時折しゃがみこんで何かを調べているようです。変装した刑事の一人が気づいたようで、近づこうとすると、さっさと傍らに停めたバイクに跨って走り去ろうとしています。

「凶嫁舞、追うわよッ。」

星野スミレは、走り出しています。彼女のぴったりしたジーンズのヒップを見ながら、口元がにやけたままの凶嫁舞信玄も走り出しました。

このへんは、一方通行の道が多く、国道に出るまでのコースは大概決まってしまいます。案の定、二人の乗ったバイクSRX-4.3は、皮ジャンパーの男のバイクにすぐ追いつきました。男のバイクは、赤い炎のようなラインが入った白いフルカウル、2本出しのカーボンファイバーのサイレンサーがついたエキゾーストパイプが、そのパワーをうかがわせます。男は一瞬振り向き、二人に気づくと、一気に加速しはじめました。ビッグツインの猛々しい排気音が響き、車速をぐんぐん押し上げます。

「あ、逃げる気よッ。」

星野スミレに言われるまでもありません。逃がすものかと、凶嫁舞信玄もスロットルを大きく開けました。凶嫁舞信玄は、射撃や武道の方はからきしでしたが、ことバイクになると、かなり自信もありました。一見おとなしそうに見えるバイクSRX-4.3も、過激なまでにチューニングしてあります。学生時代には速度違反の反則切符が、勲章のように並んでいた時期もありました。

大口径のフラットCRキャブレターが、絞り出すような吸気音をあげ、大量のガスがシリンダーに流れ込み、空冷単気筒4バルブエンジンとは思えないようなパワーを後輪に伝えます。二人乗りなのに、リアタイヤは悲鳴を上げて空転し、なお有り余るパワーがフロントタイヤを高々と持ち上げました。

「きゃーッ。」

タンデムシートでは星野スミレが悲鳴を上げ、凶嫁舞信玄にしがみつきます。背中に彼女の胸の膨らみを感じ、凶嫁舞信玄は妙に高揚しながら、口元はしまらないまま、さらにスピードを上げました。

せまい一方通行の道では、スリムなSRX-4.3の方が有利だろうと思いましたが、男もなかなかやります。ビッグツインのバイクを、軽々とテールスライドさせながらコーナーを立ち上がり、コーナーの入口ではインに向かって真っ直ぐにブレーキングするので、追い抜くチャンスがありません。どうやらベース車輌はスズキのTL-1000R、ノーマルでも130馬力を発生するLツインエンジンをさらにチューンしてあるようで、低中速コーナーでは無敵のSRX-4.3も何度か並びかけるのですが、アウト側から抜くにはパワー差がありすぎます。

「凶嫁舞ッ、体当たりしてもいいから、止めてッ。」

彼も、最後はそれしかないかと思っていますが、体当たりさせるにも、先にコーナーのイン側に飛び込まなくてはなりません。ところが、今のところそれすらできそうにもない状況です。

しばらく膠着状態が続いていましたが、とうとう国道が見えてきてしまいました。国道に出られては、そのパワーにものを言わせて振り切られてしまいます。凶嫁舞信玄はあせりはじめました。

なんとか、チャンスがないものかッ。

国道の手前で、道は大きく回り込み、ループ状になっていました。一気に加速して国道に合流するには、クリッピングポイントを奥に取って、バイクを大きくアウト側に振り進入したほうが有利です。男のTL-1000R改も、脱出速度を稼ぐためにラインをアウト側に持っていきました。

チャンスッ

凶嫁舞信玄は、一直線にイン側のラインを取り、ブレーキを思いっきり遅らせて、男のすぐ横まで並びかけました。

このまま、前へ出て進路を塞いでやるッ

男は一瞬、凶嫁舞信玄の行動に驚いたようでしたが、にやりと笑うと、スロットルを一気に戻しました。その瞬間男のTL-1000R改は器用にタックインを起こし、向きを急激に変え、飛び出した凶嫁舞信玄のSRX-4.3をやりすごすと、その後ろ側をクロスラインで駆け抜けて行きました。

「なにーッ!?」

決死の覚悟でインに飛び込んだ凶嫁舞信玄でしたが、あっさりとかわされブレーキするのも忘れて、ガードレールに接触、転倒してしまいます。

「うわあッ。」

「きゃーッ。」

凶嫁舞信玄は、咄嗟にバイクを放り出し、星野スミレを抱きかかえました。ヘルメットが路面に擦れ、視界の隅に火花を散らして滑るSRX-4.3がちらりと映りました。

「星野君、大丈夫かッ。」

凶嫁舞信玄が下になって滑ったので、彼女には、どうやらたいした怪我はないようです。

「あの男、こっちを見てるわッ。」

男はバイクを停め、振り返って二人の方を見ています。凶嫁舞信玄が立ち上がると、男は片手を上げ爆音を轟かせながら、悠々と国道に消えて行きました。ビッグツイン特有の歯切れのよい排気音は、嘲笑するかのように、いつまでも凶嫁舞信玄の耳に鳴り響いていました。

+++++

「ずいぶん、ぼろぼろの刑事さんじゃの。」

頑固そうな老人は、警察手帳を出した凶嫁舞信玄と星野スミレを見ながら言いました。二人は先刻の転倒のせいで、ジャケットやジーンズに穴が空き、埃やオイルでみすぼらしい感じではありました。

結局、怪しい男は逃がしてしまったものの、バイクの方は無事でたいした傷もなかったので、そのまま浅草のイオットのいたアパートへやってきたのでした。伽風亭米十と名乗る大家は、茶を入れ、二人を部屋に上がるよう手招きしました。

「だいたいのところは、昨日来た刑事さんに話したんじゃが、なんぞ聞きもらしたことでもあったのかいの。」

「お手数おかけして、すいません。もう一度だけ、おつきあいお願いします。」

「まま、老人の一人暮らしじゃて、話し相手が来るのは楽しいことなんじゃがの、ほほほ。」

老人は、そう言いながら茶を一口すすりました。

老人の話によれば、イオットが部屋を借りに来たのは事件の2日前、ということは日本に到着した当日で、敷金礼金以外に前金で3ヶ月分の家賃を支払ったということでした。事件のあった日にいつのまにか、引越していて、玄関に自転車が一台増えていたので、それが多分彼女のだろうということで、警察が押収していったこと、不動産屋の紹介ではなく、彼女が直接たずねて来たこと、保証人はいなかったが、まあ、前払いだったので賃貸契約をしたということでした。

「伽風亭さんは、何かお話をされましたか?」

「いいや、わしは、契約に来た時以外は、何の話もせなんだ。なかなか、めんこい娘でのぉ、髪の毛、金髪なんで、ちょっとびっくりしたがの。あれで、下の毛も金髪なのかのぉ?」

「…、あの、それで他の住人で話をされたような方はいらっしゃいませんか?」

「そうじゃのぉ、おお、隣の学生さんが、話したかもしれんな。」

「隣の学生さんですか?」

「うむ。根津というまじめな学生さんじゃ。なんでも、建築の方をやってるとかで、コンプータっちゅうのか、あれ使って、よく夜遅うにまで勉強してるじゃよ。」

「そうですか。今いますでしょうかね。」

「ああ、さっき学校から帰ってきたようじゃけ、おるじゃろ。ついでに有賀っしゃんとこの部屋も見てったらええがの。鍵は開いとるさけぇ。」

老人はどこの方言なんだか、わからない言葉で呑気に話します。

二人はアパートの軋む階段を登り、中ほどの部屋の前に立ちました。

「ここが、有賀イオットの部屋ね。」

扉を開けると、何にもないがらんとした部屋があるだけでした。中に入り、しばらく眺めていましたが、どこにでもある安アパートの哀切が漂っているだけで、他に収穫はなさそうなので、隣の住人に会ってみることにしました。

扉をノックすると、返事があり、短髪の男が顔を出しました。

「えーと、根津君?」

「…はい、そうですけど、あなたがたは?」

二人が警察手帳を提示すると、根津は胡散臭そうな眼差しを向けました。

「隣にいた女性について話が聞きたいんだけど、いいかな。」

「ああ、有賀さんのことですか。たいしたことは知りませんよ。」

「何か話ししたのかい?」

「ええ、二言三言は。例の事件があった晩ですよ。ほら、この辺緊急手配とかで、お店がみんな閉まっちゃったでしょう。それで、食事なんか困っちゃったんじゃないかと思って、パン持ってったんですよ。」

「その時なんか変わった様子は?」

「…うーん、そうですねぇ、ああ、下着姿でした。スポーツブラとパンティーでしたよ。」

「そう、それで?」

「それでって…、パンは体よく断られました。それだけです。」

その時、部屋の中を覗き込んでいた凶嫁舞信玄が言いました。

「おっ、パワーマック9600だね。ツインモニターか。いい趣味してるじゃん。」

すると根津は、明らかに不機嫌そうな顔をして、凶嫁舞信玄を表に押し出すと、扉を閉めようとしました。

「話はそれだけですか、僕は忙しいんです。」

「ああ、悪かったわね。そういや、建築関係の学生さんだったわね。何が専攻なの?」

根津は一瞬言葉に詰まったのか、二人を睨みつけましたが、深く息を吸い込むと廊下に出て扉を後ろ手に閉めました。

「古代遺跡と伝統建築ですよ。これから、図面を書くところなんです。よかったら、お引き取り願えませんか。」

凶嫁舞信玄は肩をそびやかし、苦笑いしました。

「邪魔したな。協力ありがとう。」

二人は、仁王立ちの根津を残し階段へ向かいましたが、2、3段降りかけたところで、星野スミレはなんとなく身に覚えのある気配を感じ、あわてて振り向きました。廊下の向こう側には、根津が薄笑いを浮かべて立っています。その姿が照明の関係か、一瞬揺らいだような気がしましたが、下から凶嫁舞信玄の呼ぶ声がして、彼女は首を振ると小走りに階段を降りました。

玄関には、伽風亭が待っていました。

「おや、もう帰るのかい。もう少しゆっくりしてったらどうかのぉ。」

「いえいえ、これでなかなか忙しいんですよ。協力感謝します。」

「そうか、残念じゃ。」

伽風亭は名残惜しいのか、玄関を出て表までついてきました。

「おや、あんたらもバイクに乗るのかえ。さっき来たあんちゃんもでっけえバイクに乗っておったのぉ。こう白地に赤い線が入った奴でなぁ。」

凶嫁舞信玄と星野スミレは顔を見合わせました。

「さっき来たって…、それ、頭がもじゃもじゃの、眉の太い男?」

「おお、そうじゃ、そうじゃ。なんじゃ、知り合いだったかの。」

「知り合いってわけじゃ…、それで、何しに来たんです?」

「んー、あんたらと同じじゃよ。有賀さんのこと聞いてな。部屋見て帰ってったけども、刑事さんかいって聞いたら、昔の知りあいだって言っとったのぉ。」

星野スミレは凶嫁舞信玄に耳打ちしました。

「やっぱり怪しいわね、あの男。調べる必要がありそうだわ。」

ただ凶嫁舞信玄は、言われなくとも、あれだけのテクニックでバイクを走らせる男を、調べずには置くものかと思っていましたが。

「伽風亭さんありがとう。そうそう、有賀さんの下の毛だけどね…。」

星野スミレが話し出すと、伽風亭米十は興味津々で身を乗り出してきました。

「下も金髪だったわよ。」

小声でそう言うと、星野スミレは伽風亭の肩をたたき、いたずらっぽく笑いました。

+++++

部屋の真ん中で根津は、ダンボール箱をガムテープで封印すると、宅急便の送り状を貼り付けました。送り状の宛先は、新宿区、公安庁ビル。そして最後に宛名を書くと、ふふふと笑い、遠ざかって行くバイクの音に耳を傾けたのでした。


案内


索引


ショッカーの午後について