カナかな団の躁鬱

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日記

717 考察:「ネットでの儀礼的無関心の可能性」

  • 投稿者 首領
  • 投稿日 2003年12月16日 15時48分

Web を語るのに、もう比喩を使うのはやめよう、と誰かが何処かで言ってた気がする。人は理解しづらいものを理解するのに、比喩を使う。未知の或るものを既に知っている別のものに例えて、状況を把握しやすくするためだ。しかし、似ているが同じではないものや、全く似ていないものに例えたが為に、屡々悲劇は起こる。もう Web は、十分に独り立ちした世界で、それそのものとして理解されねばならない時期に来ているということなのかもしれない。といいつつも、比喩を使わずにはいられない。ああ、なんてこった。

扨、今さら、とっても時流に乗り遅れている感があるが、「ネットでの儀礼的無関心」について考察しよう。

たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人もわずかだがいたとする。

ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。

Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。

さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。

疑問点が幾つか有る。【闇黒日記「平成十五年十二月六日」 】でも触れられていたけど、どうしてアクセスが殺到したのを知ることができたのか。アクセスが殺到し、目立ってしまった結果、テキストを削除する理由が不明。何故、目立つのが嫌なのか。本当は、目立っただけではなく、別の何かが理由として存在するのではないか。転送量の増大に耐えられないといった物理的な理由ならともかく、真の理由を考えなければ、解決は訪れないような気もするが、取り敢えずそのへんは、置いといて。

さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか── と問い掛けられている。考えてみよう。まず、Aさんは、幸せだった。Bさんも幸せだった。ひそかに楽しんでいるわずかな人も幸せだった。そして、Aさんの日記の存在を知らない多くの人も幸せだった。

人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った時、当該のテキストを読んだ多くの人は幸せだった。Bさんも幸せだった。ひそかに楽しんでいる人も幸せだった。Aさんの日記の存在も、Bさんの人気サイトの存在も知らない多くの人も、やっぱり幸せだった。ただ、アクセスが殺到した際のAさんだけが、不幸だったかもしれない。

しかし、当該のテキストを削除し、日記そのものもやめてしまったAさんは幸せになっただろう。なぜなら、アクセス殺到から逃れられたのだから。Bさん、Bさんのリンクから辿り着き、暫く購読対象にしようと思っていた幾許かの人、Aさんの日記の存在を知っていたが未読の人、そして何より「ひそかに楽しんでいた人」は、不幸になったかもしれない。もちろん、そういうことがあったことを知らない多くの人は、ずっと幸せなままである。

ところで、ひっそりとネットで日記を書くことは、可能なのだろうか。アクセス制限されているわけでもない状況下で。ネット上に儀礼的無関心が存在していない状況では、どんなリソースもアクセス過多に陥る可能性があると、筆者は考えているようだが、本当だろうか。

これだけ簡単に誰でも世界に向けて無責任に毒が吐ける世の中になってしまった今では、数多くの文才のない糞日記(無論ここも含む)なんかに誰も見向きませんてば。ハエも寄り付きませんのでご心配なく。

という意見もある。至極真っ当だと思う。ひっそりと日記を書いている多くの「ひっそり日記屋さん」は、アクセス過多になることなど無いのだ。なぜなら、人気サイトのBさんだって、リンクを張る価値を見出さないから。

裸の王様はどうだろう。というか、裸の美女にしよう。ま、そこそこ美人なので、服を着ていてもひそかに好意を抱いている人がわずかに居た。ある日、彼女は服を脱いでしまった。彼女は、好意を抱いてくれていたわずかな人には、見られてもいいと考えていた。ところが意に反して、衆目を集める結果となってしまい、彼女は急に恥ずかしくなり、慌てて服を着て、わずかな人の前からも姿を消した。

東京ドームのグラウンドに立っているのが、ネットで公開されるリソース、観客席に座っているのがユーザ、東京ドームの外に居るのが、ネットに関係ない人。グラウンドには、あまりに多くのリソースが乱立しているので、観客席のユーザからは全てを見ることが出来ない。多くのリソースは、少数のユーザを相手にしているだけ。そこで、件の美女は裸になってみたわけだ。ところが数あるリソースのうち、いくつかがオーロラビジョンを持っていた。お、裸の美女だ、と気づいた B というリソースは、オーロラビジョンに彼女を映し出す。途端に観客席のユーザの興味が集中する。目立ってしまって恥ずかしくなったリソースは、グラウンドから姿を消す。そのリソースを利用していた(どう利用していたか興味が湧くなあ)、ユーザから嘆息が漏れる。そして、どうしてオーロラビジョンに映すのだ、とリソース B を非難する。すると、皆が見ているグラウンドで、裸になる方に責任はあるという意見が出てくる。見られたくないなら、グラウンドに立つな、或いは、囲いを作ってその中で裸になりたまえ。それらの意見は現状の Web というものを踏まえたうえで妥当である。

囲いを造る技術が無いとか、反論もある。そもそも囲いを作ってしまっては、ユーザが集まらないということもある。誰かに見て欲しいけれど、多過ぎる人には見られたくない。しかし、ゼロでは嫌なのだ。どのくらいの数のユーザなら、ニーズに合致するのか定かではないが、オーロラビジョンに捕捉される以前の状態が、おそらくちょっと物足りないが概ね満足できる数字だったのだろうか。が、人為的に作られた Web では、それは偶然の産物であり、恒常的に維持できるものではない。そういうシステムになっていないからだ。

しかし、何より疑問なのは、『ひっそり』と何をやりたいのかという点である。どうして『ひっそり』なのか。道徳的に問題があるのか、違法行為なのか。兎に角、『ひっそり』と何事かを行うには、入念な準備が必要であり、壁に耳あり障子に目あり、念には念を入れたつもりでも、人の口に戸は立てられず、いつかは漏れることとなり、衆人の知ることとなるのである。本当にAさんは、何かを『ひっそり』とやりたかったのだろうか。別に『ひっそり』じゃなくても好かったのではないか。Aさんが日記をやめるに至ったのは、『ひっそり』が打ち破られたことが直接の原因ではなく、真の理由が別に存在すると、私は思うのだが。

穿った見方をすれば、『ひっそり』としたいのは、Aさんではなく、「Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人」かもしれない。つまりAさんが、裸であることを自覚してしまって、服を着たりすることのないように。『ひそかに』という言葉が、それを現しているような気もするのだが。

さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか── という問い掛けに、筆者は 誰も幸せになっていない という回答を述べている。ネットでの儀礼的無関心は、誰もが幸せになれる方法なのだろうか。

ふと思った。ひょっとしたら、皆の幸せに含まれるAさんの幸せ(これは実は得体がしれない)というものを隠れ蓑にして、実は「ひそかに楽しんでいる人」の幸せの保護だけを考えているのではないか。【はてなダイアリー - recent events@TRiCK FiSH「ネットでの儀礼的無関心の可能性」 】では、AさんやBさんについては考察しているけれど、「Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人」については触れられていない。誰が幸せだったかを考えると、「Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人」は確実に幸せだったはずで、AさんやBさんが幸せだったかどうかは不確実である。幸・不幸は相対的な感覚であり、 誰が幸せになったのだろうか という問いは、裏を返せば、「誰が不幸になったのだろうか」ということである。確実に不幸になったのは、「Aさんの日記をひそかに楽しんでいた人」だけ(なんたって楽しんでいたのだから)である。穿ち過ぎだが、Aさんの気持ちを慮るふりをして、儀礼的無関心などを持ちだし、その実「ひそかに楽しんでいる人」の利益を保護するのが目的、というようにも読める。というより、ネットへ儀礼的無関心が導入されたとしても、効果的に作用するのは、「ひそかに楽しんでいる人」だけで、多くの人の幸せとは、ほぼ無縁であり、何れにしろ誰もが幸せになることはないような気がする。

というか、Web を電車に例えた時点で論外なのかもしれない。電車とは、何処かに行く為に乗るものであって、『ひっそり』と何かをやる為に、乗るものではない。逆に言うと何かをやっていないから、電車の中では儀礼的無関心が存在するのだろうし。

まあ、つまりは、諸行無常ということで。


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